水揚げに波間を彩る朱色が特徴のマダイは、その鮮やかな色より「縁起が良い」とされ、古来より人々の祝宴を華やかに演出してきた魚です。
その優美な姿に加え、白身ながらもしっかりと舌に残る豊かな旨味は、世代を超えて愛され続けてきました。
今回は、そんなマダイがどのように日本の食卓の定番、ひいては特別な魚へと昇華してきたのか、その足跡を静かにたどります。
火とともに始まる原始的なマダイ食
日本列島に人々が暮らし始めた縄文時代には、貝塚から多くのマダイの骨が出土し、そのほとんどに焼き焦げや煮炊き痕が残されています。
マダイは美しいだけでなく大きくて歩留まりのいい魚(提供:PhotoAC)新鮮なマダイは刺し身のように生で食された可能性もありますが、主には貝や木器とともに焚き火でじっくり火を通し、骨ごと煮込む原始的な調理法が定着していたことがうかがえます。
食料の保存技術が未発達だった当時、火を使った簡易的な加熱調理は安全確保のためにも欠かせない手法でした。
肉食禁止令と魚介文化の深化
時が進んで675年、天武天皇は仏教の教えにより、「牛馬犬猿鶏の宍(肉)を食することなかれ」と肉食禁止令を出します。
この令は毎年4月から9月までの農耕期間に限り、期間中も猪や鹿は食べることができたようですが、このような肉食禁止令は以降もたびたび出されることになります。
魚はそれまで以上に主要なタンパク源となり、魚介を多様に加工する技術が飛躍的に発達。マダイは塩漬けして陰干しした干物や、麦麹を用いた発酵食品などに加工され、長期保存が可能になりました。
また、室町時代になると中国から精進料理が伝わり、そのうちの「だし」の文化が広まり始めます。鰹節や昆布とともにマダイの頭や骨も出汁素材として重宝され、「うま味」を追求する和食文化の基礎が築かれました。
出汁文化は、やがて日本料理の土台となります。
権力者の膳と庶民の口へ
鎌倉・室町を経て江戸時代になると、武家社会の儀礼や贈答文化の中でマダイは「めでたい魚」として絶大な地位を占めました。
将軍家や大名の祝膳には必ずマダイが供され、祝宴や婚礼などハレの席に欠かせない縁起物とされます。
マダイの塩焼き(提供:PhotoAC)一方で、幕府が海産物の流通を奨励したことで漁港と市場が発展し、都市部の庶民も干物や塩ゆでしたマダイを手軽に味わえるようになりました。
こうして約300年前から、貴族だけでなく一般家庭の食卓にもマダイがのぼる機会が増えていったのです。
お祝い魚から日常食へ
近代以降は価格も安定し、地方の家庭でも祝いの席だけでなく、季節の旬魚として刺し身や塩焼きで楽しむ日常食へと変化していきます。
マダイの刺し身(提供:PhotoAC)<特に「お食い初め」や還暦祝いなど、人生の節目を彩るハレの日の定番として現在も愛され続けています。
令和の今、寿司やお吸い物など調理法は多彩化し、古代から続く“百魚の王”の歴史は、これからも新たな食文化を紡いでいくことでしょう。
(サカナトライター:華頼頓)