ブリは日本の食卓に欠かせない魚です。
魚介の長期保存方法が確立されていない縄文~平安期から保存方法が考えられ、早い段階から内陸部でも食されていたといいます。
現代でも重要な食用魚に位置するブリは、どのようにして消費されてきたのでしょうか。その歴史を探ってみます。
塩漬けと干物で拓かれた保存食文化
冷蔵技術のなかった時代、水揚げされたブリは塩漬けと天日干しによる保存加工でも利用されていました。
獲れたてのブリを内臓ごと塩で締め上げ、数日間塩蔵したあと、風通しの良い浜辺で天日干しすることで、身がギュッと引き締まり、防腐性が高まります。
塩の浸透圧による微生物抑制と、乾燥による水分除去で長距離輸送が可能になりました。
塩を振ったブリの切り身(提供:PhotoAC)こうして仕上げられた「塩ブリ」は軽量かつ耐久性に優れ、氷や冷蔵設備のない時代でも腐敗を防ぎつつ、遠方への輸送が可能となりました。
ミツカン水の文化センターの機関誌『水の文化』29号 魚の漁理「ブリの街道 豪雪を越えて運ばれた海の幸」において、近畿大学文芸学部教授の胡桃沢勘司氏は次のように述べています。
文禄時代には塩ブリを作り、長距離輸送する技術が確立されていたということになります。
昔からブリの一大産地だった富山湾からは、10〜17日間を要して高山(現在の岐阜県高山市)や松本(現在の長野県松本市)に運ばれていったと伝えられます。
干物の軽さは旅人の荷負担を軽減し、畿内の宮廷、寺社への献上品としても重宝されました。
ブリ街道の中継地で知られる野麦峠(提供:PhotoAC)郷土に根付く発酵と漬けのバリエーション
江戸時代になると、米を使った発酵食文化が成熟し、「なれずし」や「醤油漬け」といった多様な加工法が生まれました。
能登半島では、ブリと米、塩を交互に重ね、木樽で半年以上発酵させる「巻鰤(まきぶり)」が名物に成長。発酵によって酸味が生まれ、今日では凝縮した脂とともに“海の生ハム”とも称されるそれは、加賀藩主や京都の公家に献上されるほどの高級珍味となりました。
また富山県氷見では、寒ブリを輪切りにして大根とともに醤油・酒でじっくり煮込む「ぶり大根」が家庭料理として定着。大根の甘みとブリの脂が調和し、冬場の保存食ながらも豊かな旨味を引き出す一品となりました。
多彩なブリの利用法
古代から中世にかけて、冷蔵技術のない時代でも腐敗を抑えて長距離輸送を可能にした塩漬け・干物の「塩ブリ」は、日本海側の海産物を内陸まで届ける生命線でした。
江戸時代には発酵技術が深化し、能登の「巻鰤」や氷見の「ぶり大根」といった郷土料理が生まれ、地域ごとの風土と知恵がブリ料理の豊かなバリエーションを育んだのです。
ぶり大根(提供:PhotoAC)現代では「寒ブリ」を中心としたブランド化が進み、伝統的な焼き物・煮付けだけでなく、カルパッチョやマリネなど世界の調理法を取り入れた新しいレシピも多彩に展開されています。
これからもブリは、日本人の食文化を彩り続ける存在であり、その歴史はさらに深まっていくでしょう。
(サカナトライター:華頼頓)
参考文献
機関誌『水の文化』29号 魚の漁理「ブリの街道 豪雪を越えて運ばれた海の幸」(胡桃沢 勘司 )-ミツカン水の文化センター