兵庫県明石市と聞いて、「タコ」や「明石焼」を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。
明石市が2023年に実施した「明石のたからもの」の投票でも、明石焼(玉子焼)は1位、タコ(マダコ)は4位でした。
実は、明石とタコとの関わりは明石焼が生まれるより、はるか昔までさかのぼります。
「明石ダコ」がなぜ名物として知られるようになったのか、明石の海や漁業、そして郷土料理の明石焼までつながるタコ文化をたどります。
明石とタコの歴史は約2000年前までさかのぼる
明石では、少なくとも弥生時代後期にはタコ漁が行われていたと考えられています。
明石市によると、市内の二見町東二見にある「池ノ上遺跡」から、弥生時代後期のイイダコ漁に使われたタコつぼが出土しました。上の丸貝塚からも、古墳時代のイイダコ漁用とみられるタコつぼが発掘されています。
マダコ(提供:PhotoAC)現在の明石で「明石ダコ」と呼ばれているのは主にマダコです。イイダコとマダコでは種類が異なるため、約2000年前から現在と同じ「明石ダコ」を食べていた、とまではいえません。
それでも、タコを獲って利用する文化そのものが、古くから明石にあったことは興味深いところです。
明石では現在もタコつぼ漁が行われている
長い歴史を持つタコ漁は、現在の明石にも受け継がれています。
明石市では明石浦、林崎、江井ヶ島、東二見、西二見の5つの漁協があり、明石海峡周辺や大阪湾、播磨灘の「鹿の瀬」などを漁場として漁業が行われています。
マダコを獲る方法の一つが「タコつぼ漁」です。
タコつぼ(提供:PhotoAC)マダコには岩場のすき間などの狭い場所へ入り込む習性があります。そこで、海底にタコつぼを設置して、中へ入ったマダコを漁獲するというわけです。
明石市では、60個ほどのタコつぼを1セットとして磯の周辺に仕掛けています。
古代の遺跡から見つかったタコつぼと、現在も続くタコつぼ漁。道具の素材などは変わっても、タコの習性を利用する漁が明石で受け継がれている点に、地域とタコの深いつながりが感じられます。
明石ダコは明石を代表する存在になった
現在の明石でタコはどのくらい身近なのでしょうか。
2023年に明石市が実施した「明石のたからもの」の投票では、明石焼(玉子焼)が798票で1位、タコ(マダコ)が286票で4位となりました。
さらに「明石といえばタコかタイか」という投票では、タコが2,939票、タイが1,215票と、まさに“明石の顔”ともいえる存在です。
タコ(提供:PhotoAC)一方で、近年はマダコの漁獲量減少も問題になっています。
明石市によると、市内のマダコ漁獲量は2015年の1,046トンから2021年には133トンまで減少し、2023年は207トンでした。
これを受け兵庫県では、マダコの種苗生産技術の開発も進めています。
さらに明石市地先では、産卵用タコつぼの投入や抱卵ダコの再放流などの資源保護をするなど、名物を未来へ残すための取り組みも、すでに始まっています。
明石のタコ文化から生まれた郷土料理「明石焼」
明石のタコ文化を語るうえで外せないのが「明石焼」です。地元では「玉子焼」と呼ばれています。
農林水産省によると、明石焼は小麦粉、じん粉、卵、だし汁を合わせた生地にタコを入れて焼き、だし汁につけて食べる明石市の郷土料理です。
その誕生には興味深い説があります。
明石焼(提供:PhotoAC)江戸時代末期から大正時代にかけて、明石では卵の白身を材料に使う装飾品「明石玉」の生産が盛んでした。そこで余った卵黄と、目の前の海で獲れるタコを組み合わせたことが明石焼の始まりではないかとされています。
ただし、これは農林水産省も「始まりではないかといわれている」としているおり、確定した起源とは言い切れないようです。
文化庁の「100年フード」では、明石焼を商売として始めたのは大正8年頃とされ、明石を代表する食文化の一つとして紹介されています。
海で獲れるタコが、やがて地域を象徴する郷土料理へ──明石焼には、そんな土地の食文化が詰まっています。
明石ダコと明石焼から見えてくる「海のまち」の文化
明石とタコとの関係をたどると、単に「タコがおいしい地域」というだけではないことが見えてきます。
弥生時代後期の遺跡からはタコつぼが見つかり、現在もタコつぼ漁などが行われています。そして、地域で獲れるタコは明石焼という郷土料理にも結びつきました。
一方、近年はマダコの漁獲量が大きく減少しています。
明石のタコ文化は、長い歴史があるからこそ、この先も自然に残っていくとは限りません。
明石焼を食べる機会があれば、中に入ったタコだけでなく、その背景にある海や漁業の歴史にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
(サカナトライター:原田大樹)