「魚拓」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
大物を釣った記念、釣具店の壁に飾られた大きな魚……そんなイメージを持つ人が多いかもしれない。
私にとって魚拓といえば、祖父の釣具屋だ。
店の壁には常連客たちが釣った魚の魚拓が何枚も飾られていた。
その中でもひときわ目を引いたのが、「釣人 店主」と書かれた大きなタイの魚拓だった。
祖父の貫禄を示す「釣人 店主」
私の祖父は小さな釣具屋を営んでいた。祖父は毎日朝の3時ごろから海に出てイシゴカイや小さなカニなどの釣り餌を自ら採りに行き、それを売り場の桶に入れると寝室に戻って寝ていた。
だから私は店に立って仕事をしている祖父の姿をあまり見たことはない。
いつも店に立っていたのは祖母だった。朝の釣りが終わると、常連客たちがクーラーボックスを片手に来店してくる。
店内にはパイプ椅子と小さなテーブル、灰皿が用意されていて彼らはそこに集まると本日の釣果を自慢する。私は売り物のカニをつまみ上げては床に放して遊び、そして彼らの自慢話に耳を傾けていた。
店内にはそんな釣り人たちの自慢の一匹を写し取った魚拓が何枚も飾られていた。その中でもひときわ目立ったのが大きなタイの魚拓だった。
その魚拓にはこう書いてあった。
「釣人 店主」
その大きさ、迫力、貫禄。無口でほとんど店に顔を出さない祖父の釣りの実力を無言で証明しているようで、私はそれを密かに自慢に思っていた。
祖父の釣具店(撮影:清水むつみ)魚にもう一度命を宿す祖母の仕事
魚拓を刷るのは、祖母の仕事だった。
「これにはセンスがいるのよ」
祖母はよくそう言っていた。
魚拓を刷るための専用の流し台と作業場があって、作業が始まると部屋の中は魚と墨のにおいで満たされた。
魚拓の道具(撮影:清水むつみ)作業中は決して邪魔をしてはいけないと言われていた。だから私はガラス戸を少し開けて邪魔しないようにその様子を眺めていた。
丁寧に魚の全身に墨を塗り、大きな布を当てていく。そして、優しく押し当て、そっとはがしていく。息を止めたくなるような精密な作業。布をはがすと、真黒な魚の影が現れる。
そしてここからが、祖母のセンスの世界。
うまく写し取れなかった部分を筆で少しずつ修正していく。そうすることでより一層魚の影が本物に近づく。
最後に目を入れる。この目の入れ方が上手いのだ。
それが描かれた瞬間魚の影に生命が戻ってきたかのように見える。私はこの一連の作業を見ることが大好きだった。
魚拓の意味について考える
釣り人はなぜ魚拓を取ってきたのだろう。私なりに考えてみる。
魚拓に映し出されるのは魚の影だ。でも、その魚の本当の大きさが分かる。そして描かれた瞳からその生命感が伝わる。
それを見た釣り人が受け取るものは何か。それは、釣り人にしかわからない圧倒的な情報なのではないかと思う。
例えば、その魚の体躯を見れば、どのくらい引きが強かったのか想像ができるだろう。
また、どのくらいの時間のやり取りがあったのか? どんな仕掛けで? どこの海で? どの深さで? どの天候条件で?
頭の中が身体的な感触と思考でいっぱいになる。
もちろん写真にもその力はある。だが、魚拓が伝えるのはもっと濃度の高い情報のような気がしてならない。
子どもたちと取った魚拓の思い出
祖父の釣具屋に飾られていた魚拓に憧れて、私も釣りに行ったときはよく魚拓を取るようにしている。
私たちは基本的に家族で釣りに出かけるので、釣れるのはハゼやカサゴといった小物ばかりだ。魚拓というと大物を記念に残すイメージだが、私たちにとってはどんなに小さい魚でも大切な思い出だ。
先日は6歳の娘と4歳の息子が釣った小さなベラとグレを魚拓にした。
ベラというと、釣りではよく外道扱いされる魚だ。でも娘はそのカラフルな見た目と、刺身のおいしさからベラが大好きだ。だから、ベラの魚拓を取ることにした。
オーソドックスな魚の魚拓と漁港や日付を書いたものをまず作った。でも娘はそれでは満足せず、もう一回刷る。
何をするのかと思えばクレヨンを取り出し魚の周りにハートや星の模様を描きだした。そして覚えたてのひらがなで「べらだいすき」と書いた。
娘のベラ愛あふれる魚拓(提供 清水むつみ)思い出の手触りを伝える魚拓の魅力
スマートフォンやSNSの普及で自分の釣果を大勢の人に見てもらうことが容易くなったこともあり、今では大物を釣ったら魚拓を取るという文化は下火になってしまった感がある。
しかし、私は魚拓にはその魚を釣ったときの思い出の手触りを伝える力があると信じている。
祖父の釣具屋は、もう無い。でも私の頭の中には、はっきりと「釣人 店主」と書かれたあの大きなタイの魚拓が残っている。
そして、あの頃の墨のにおい、もういない祖母の背中、釣具屋の常連客の喧騒も魚拓と共に思い出すことができる。
魚拓はもしかしたら、その一匹と共に流れていた時間そのものを写し取っているのかもしれない。