静まり返った水族館の屋内展示室の中で
子ども連れの客が一斉にドルフィン・プールを目指す。オコゼやウツボの水槽の前に陣取っていた坊やも、「せっかくなんだから」と言うお母さんに手を引かれてプールへ行ってしまう。
静まり返った屋内展示室の中を独り歩く。どの水槽の生き物も警戒心が解けて悠々としている。イセエビはひげを振り回して闊歩し、チンアナゴだって砂からニョキニョキと生えまくっている。
イルカショーの似合わない私はある水槽の前で足を止める。プレートには「マダコ」とある。先ほどまでずっと蛸壺の中にひこんでいたタコが、外界に噛り付かんばかりに張り付いているではないか。
観察して分かるタコのかわいさ
そっと近づき、ガラス越しの吸盤を観察する。タコの吸盤はよく見ると放射状に筋肉があって吸着しやすい仕組みになっている。さらによく観ると、粒粒とした色素胞という細胞が吸盤をぐるりと取り囲んでいることがわかる。
タコの胴は静かに躍動している。
水を取り入れるとき、奥に引っ込むのが弁だ。弁が開いて胴(学術的には外套腔とよばれる)が膨らむ。このときのタコは風船のように真ん丸で、とてもかわいい。
鰓呼吸を終えた後、不要な水が漏斗から吐き出される。漏斗はよくタコをキャラクターとして描くときに、口として描かれているあの部分だ。
水が吐き出されるとき、漏斗は口笛でも吹くみたいにフゥーとすぼんだような形になる。水を吐き終えると、漏斗は閉じられる。このときの柔らかみを伴った閉じられ方が何とも言えない。文章で表現するのは難しいが、不満がある子どもがむっとして口をつぐむ、あの口元に似ている、とでも形容すればよいだろうか。
タコは人間の顔を個別に認識することができる
やがてタコは水槽の中を歩き始める。その歩みは操り人形のようにぎこちないが、酒飲みのように軽快でもある。そして岩の向こうに行ってしまって、こちらには片目だけを出して寄越す。
あまりに私が近づきすぎたから、少し警戒されてしまったようだ。タコの眼は私をじっととらえている。タコの脳神経はすさまじく発達しており、人間の顔を個別に認識することさえできるという。私は目の前の彼にどういう人間としてとらえられているのか、気になって仕方がない。この感情はまるで恋のようだ。
気が付くと子供たちの声が遠くから聞こえてくる。イルカショーが終わったらしい。つかの間の時を共に過ごせたことの礼を言って、私は水槽を後にする。
イルカショーもいいが、タコと過ごす哲学的なひとときこそ、私の人生にとって甘露なのである。
(サカナトライター:宇佐見ふみしげ)